昔の四つ橋
 
江戸時代の四つ橋 「摂津名所絵図」
      本稿は文章画像共、松村 博著「大阪の橋」
(松籟社 1989)大阪市中央図書館蔵より引用
 

  名前の由来
四つ橋は西横堀と長堀川が交差するところに井字状に架けられていた四つの橋を総称していう。
それぞれ橋の名前は西横堀川では北側の上繋橋南側の下繋橋、長堀川では西側の吉野家橋、東側の炭屋橋である。
四つの橋がいつ架設されたものかはっきりしないが、長堀川の開削が完成したとされる元和八年(1622)からそう遅くないじきに四橋とも架設されたと考えてもよいだろう。

昭和初期の四つ橋
後方の建物は市立電気科学館  橋のたもとに建つ石碑は鬼貫の句碑
 
四つ橋付近 部分地図
昭和初期の長堀川付近の部分図
御堂筋は未だ未着工
茶色の線は"市民の足"市電の路線図
茶色の線は市民の足・市電の路線

西横堀川が埋め立てられる迄は鬼貫の句碑と親交の深かった来山の句碑は川を挟んで背中合わせに建っていたが現在は阪神高速道路の高架下で仲良く並んで立てられている。

家略年譜(一部を抜粋)

寛文元年(1661)4月4日 醸造家油屋の三男にうまれる。
寛文八年 最初の句「こいこいといへど蛍がとんでいく」をよむ。
延宝元年(1673) 維舟の門に入る。
延宝四年三月、維舟撰『武蔵野』に「伊丹上島竹松丸」として入集。
貞亨元年(1684)三月、有馬入湯。独吟百韻の後半を訪ね来た来山・鉄卵の三吟で満尾。
元禄二年(1689)九月、三池藩を致仕し伊丹に帰り、その後大坂に住む。
元禄三年 この年までにいわゆる“大悟”をなす。
 二月、鉄卵追悼百韻興行。西鶴・来山ら出座。   『大悟物狂』刊。
 八月、福島村に移居。「犬居士」と称す。       『犬居士』刊。
  来山、鬼貫の新居を訪れ両吟歌仙。
亨保二年(1717) 来山百ヶ日のころ文十とともに今宮十万堂を訪ねる。
  来山一周忌『遠千鳥』に序文をよせる。
  *来山は亨保元年十月三日、大坂に没し、千日寺に葬る。(六十三歳)
亨保十八年 剃髪し、即翁と号す。
元文三年(1738)八月二日、大坂鰻谷に没し、鳳林寺に葬る。(七十八歳)

<Back