「画像で見る鰻谷の新今昔」1
昭和17年(1942)に刊行の「鰻谷中之町の今昔」に掲載されている最近の町景三十六と現在の風景を対比しました。
鰻谷の名称 由来
鰻谷の命名の意味はやはり地勢からでありませう。摂陽奇観一に往古船場の地形は當代のごとく平地にあらず。所々に谷のごとく高低ありしにや、いまの道修町は近世まで道修谷といふ名存せり。また島の内の鰻谷も舊き名にして谷間のごとき所にてありしとぞ。現在の上町丘陵は、東横堀川を以って一直線にくぎられていますが、かういふ状態はあるべきでないので、自然の地形は川を越えた西にも、多少の高低出入を作って居たろうと考えるのが常識でありませう。だから想像を逞しくすれば、秀吉が三の丸の外側に築いた空堀かまたはその北手の谷筋に當るところが、幾分の高低を残して、そこが鰻と何か特別の因縁あってしかく呼馴らしたのかも知れないのであります。何分こゝは早く住友の銅吹所になって、その為か何かによって凹凸を平らにしてしまひました。(中略)鰻谷だけは相變らず今もそのまゝ古稱を傳へて居るのであります 。
「鰻谷中之町の今昔」より原文のまゝ記載(旧かなづかい)

空堀・坂道の石段1

空堀・路次の石段

空堀・坂道の石段2

住友銅吹所跡

説明 銅板
住 友 銅 吹 所
江戸時代、日本は世界有数の銅産国であった。なかでも大阪は銅精錬業中心地であり、全国から粗銅が集まり、精錬されていた。この地にあった住友銅吹所は、住友家(泉屋)が1636(寛永13年)に開設した日本最大の銅精錬所で、日本の生産量の約1/3を精錬していた。銅吹所には住友家の店舗や住宅が隣接していた。それらを含めた面積は約1000uである。銅吹所は1876(明治9年)に閉鎖されるが、住宅は1915(大正4年)までは住友家本邸として、1945(昭和20年)までは別邸として存在した。1990〜92年に発掘調査が行われ、100基を越える精錬炉など、銅吹所・住宅関連の諸遺構が出土している。
(左 銅版の説明文)
鰻谷中之町 東横堀川より西横堀川(現阪神高速道路環状線北行き)の長堀川("63埋め立、現長堀通)沿い南北二筋は長堀筋・心斎橋筋にくぎられ、東よりは鰻谷東の町(平成元年南区・東区が合区、中央区となる)現島之内1丁目、中の町は心斎橋筋1丁目・東心斎橋1丁目、西の町は西心斎橋1丁目と改称された。南北二筋は濱通を鰻谷北通・鰻谷通は鰻谷南通と呼ばれる様になりました。
鰻谷の町筋名称の由来  東西の道路を通、南北の道路を筋と云った。
【藤中橋筋】 藤中橋は藤中奏医師が銘じ41年(1909)塩町の自宅より島ノ内警察署(現南署)付近の医院に通う為、自費で建設。一般にも利用させた。
【中橋筋】 長堀橋(堺筋に架かる)と三休橋の中間に位置するからと云われる。明暦元年(1655)頃は大溝筋とも呼ばれた。時代が下がるにつれて中橋筋の名称が定着した。
【三休橋筋】 長堀橋・中橋・心斎橋筋の三橋を休めて交通量をここへも取るからの名だと云われる。
又、「栴壇木筋」(せんだんのき)の頃では、中橋筋の一筋西筋。南にて三休橋と云う。
長堀川(現長堀通り)以南の島ノ内(現中央区)では三休橋筋が一般的であったと考えられる。
【丼池筋】 (どぶいけ)三休橋筋の一筋西筋。当時塩町通り(長堀通りの一筋北)に難波(なにわ)薬師堂跡があり、そこにかつて蘆間(あしま)の池があって、この池から丼池の名が生じたと伝える。(攝津名所図会大成)。(旧芦池小学校跡)
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